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神奈川に関する旅行記

東海道本線の歴史的痕跡を探す ~横濱驛移設変転史編【建造中】...

明治5年(1872年)に品川-横浜間が鉄道仮開業して以来、横浜駅は3回その場所を移動しております。

開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近だった事は広く知られておりますが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は横浜市民と言えとも忘れ去られているのが現実です。

要するに初代横浜駅から路線が西に延長されると当時と言えど頭端式スイッチバックでは運転上不便この上も無く、間も無く日清戦争勃発と共に軍用列車運転目的の為に陸軍省は初代横浜駅を無視して短路線が建設して輸送の効率化を図ります。
此れが現在の路線の原形になる部分です。
後に、廃止された神奈川駅から高島町付近を経由して程ヶ谷に至る新線が開通して以来、長距離列車は初代横浜駅を経由せず直進する事となります。

大正3年(1914年)12月20日、当時の鉄道院は品川-神奈川駅間を複々線化し各駅停車する線路を1200ボルトで電化工事を施工した蔡に神奈川-桜木町駅間の中間に高島町駅を開設し品川-高島町駅間を電化して都市間高速電車を投入します。
此れが2代目横浜駅の嚆矢となります。
そして翌年の大正4年(1915年)8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横浜駅です。

2代目横浜駅は改札口を2階に設置して跨線橋で東海道線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造でしたが、反面真夏ともなると駅全体が室となり蒸し風呂状態で苦痛だったとの古老の回顧も耳にしております。

桜木町駅時代同様、駅構内では現在も続く川村屋がレストラン営業をしており、浜っ子は市電で早めに横浜駅に到着して待ち時間を川村屋で食事を済ませてから列車に乗り込むと言ふスティタスが確立していた様です。

また、高島から程ヶ谷(保土ヶ谷)に抜ける貨物専用線は駅前を高架線で貫通する構造でしたが、他所から来横した者の目にはレンガ建築物の目の前に高架線が存在し威勢良く煙を吐いて走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を曳き行き来する姿を目にし奇異さを感じたに相違無かったと思われます。

2代目横浜駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅裏側は葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街が形成さるに至りましたが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまいましたが、此の点では東京萬世橋駅や大阪湊町駅所在地に共通してる事例と言えます。

また桜木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鉄道院が横浜(高島町)-桜木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り恐らく事実だったと考えられます。
然るに、当時の横浜駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業し輸送を独占していた状態であり、鉄道院は都市間輸送たるインター輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われます。
即ち、2代目横浜駅開業と同時に横浜(高島町)-桜木町駅間の旅客営業を現代人の我々から見て驚異に感じるかもしれませんが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鉄道院の真意の一端が読み取れます。
4ヶ月後の12月30日になり桜木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。
他方、大正7年(1918年)4月1日に横浜-桜木町駅間の高架化工事が完工し該痕跡は現在でも見る事が可能です。

死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事例無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高いと推定されます。

また平沼商店街は伊勢佐木や元町と並ぶ横浜屈指の商店街に発展した公算が高かったと思われます。

然し、関東大震災で2代目横浜駅は全焼し駅機能が一時的に停止します。

震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に存在し支障する為に当時の鉄道省に2代目横浜駅の撤去移転を打診してきました。

また帝都復興院は神奈川-桜木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横浜市に打診してきます。
然し、当時の渡邉勝三郎横浜市長は、『横浜の現状に鑑み到底納得できず受け入れ難い』として帝都復興院や鉄道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北幸町の米ライディングサン石油会社所有地を横浜市が買上げ此処に新停車場設置を希望します。

此の辺の経緯に就いては現存する当時の内務省対横浜市との間に交換した公文書を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わります。
当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日復旧工事着手にも拘らず、神奈川-桜木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても鉄道省が路線廃止に対し積極的だったのは明白な事実と見るべきです。

結局、横浜市の希望が受容れられ、新駅設置まで高島町で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附公文書に見られます。

因みに最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉まっていた事に拠る横浜市民をして監督官庁たる鉄道省に対する反発が存在したと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線設置は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)であり、日時に対する整合性が合わない。
震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し、亦事実無根と言ふべきである。

かくて横浜-桜木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め『根岸線』に編入されるまで東海道本線支線でした。

紆余曲折しつつ昭和3年(1928年)10月15日に現在地に移転したのが現3代目横浜駅です。


尚、本旅行記で使用した歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人蔵品。


表紙は第2代目横浜駅本屋絵葉書
横浜臨海公園 蔵

2010/02/08 12:02:39

横浜線の歴史的痕跡を探す ~東神奈川-八王子間編 明治領歌【...

横浜線は一昨年開業100周年を迎えました。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出物と言えば「生糸」です。
当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されておりましたが、国内外でも高評価で1等品と認定されていたのは、長野県産品と群馬県産品でした。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出されます。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送ルートが、日本鐵道(高崎→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と単純で運賃も安価で済んだのに対し、長野県産品は、官設鐵道(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と数社に跨る事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、後手にならざるを得ず、明治30年代後半ともなるとその差が歴然として深刻な状況を招来します。

此の為に八王子から横濱に向けて鉄道建設を願う声は日に日に高まったものの、明治政府は横濱線が政府建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とし財政に余裕が無く、故に、民間の出資に依り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に『横濱鐡道株式会社』が設立され、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注されます。

当時は現在の如くインターネットで簡単に入手すべく可能な時代では無く、船便でのやり取りの結果、オーダーするものであり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になりました。

明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線が開業します。

当時は横濱鐡道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと想像されます。

横濱鐡道開業の頃より国内知識層が軌間拡大論が展開されます。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無で内容を理解も吟味もせず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となります。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内に台頭します。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐡道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始します。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職し改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫します。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対しましたが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後のなり此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果です。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(明治3年、1870年1月2日~昭和17年、1942年2月5日)は田中義一内閣の鉄道大臣在任中に私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ『私鉄疑獄事件』を起し、小川は鉄道大臣経験者と言ふ親任官職にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され裁判に付され大審院『現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処され位階剥奪されるが如く此の手の政友会代議士は国益より利権に走狗する行為が露骨で『我田引鉄』を得意とします。

政友会の後塵直系組織たる現在与党の○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業まで留保され日を見る事はありませんでした。

標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる『鐵道院横濱線』として新たなる出発をします。

国立公文書館に保存されている当時の公文書本文に政府の本心が現れている。

因みに文中の「新宿線」とは現在の山手線です。


横濱鉄鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鉄鐡道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央二線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂太郎


当時の山手線は現在の様に複々線で客貨が分離されてはおらず複線の状態で電車を頻発運転させながら貨物列車を運転させる等、既に飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は必要不可欠であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった事が垣間見えます。

即ち、借与中に於ける民有所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させたものです。

後年、昭和初期に政府が鉄道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鉄道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額だった『富士身延鉄道』を我が国に於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鉄道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化します。

殊に、昭和12年(1937年)7月2日に日華事変が勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化します。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鉄道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化します。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止。
然も、戦後になり我が国の超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然となり、故に、各方面から買収資産変換と無償払下運動が勃興しましましたが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は鐵道省や運輸通信省にタダ取りされたと言ふ根深い恨みを残す事になります。


東神奈川駅は鉄道院東海道本線と横濱鐡道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐡道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与されたものです。

よく横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名されたものです。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し横浜-神奈川駅間が180メートル弱しか離れていない為に前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった次第です。

鉄道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化を決定し、大正12年(1923年)に工事着手をします。
然し、工事途中に関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になりましたが、電化に関する要因教育研修を兼ね当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転が開始されます。

東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化します。
横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鉄道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議されます。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車の国産化を成功したとは申せ、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造費とC51型蒸気機関車2輌分に相当し、当時の鐵道省の予算内の新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入するなど論外的見解と言ふべきであり、実際に不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線のも電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より概電化区間に於いて電車運転が開始されます。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転されます。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無くモハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転されました。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化しても1時に1本の運転は変わりありませんでした。

また残りの原町田-八王子駅間には昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始します。

昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鉄道(現小田急電鉄)、相模鉄道と共に戦時体制に組込れてます。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極めます。
特に、陸軍士官学校卒業式に御臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鉄道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築されました。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が1時間に1本牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなって来ました。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、横濱線全線が単線である事も重なり、輸送上の障害を来たす為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転されます。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設されます。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鉄道所属駅相模原駅は、鉄道省から開業を直前に重複を避ける為に『小田急相模原駅』に改称を命じられます。

大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された『横浜大空襲』に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京浜線仲木戸駅付近で焼夷弾に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が火砕流に巻き込まれ、全員行方不明となり遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされました。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過して運転されます。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぎます。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎が全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地が日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設されます。

大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れます。

現在の横浜線は純然たる通勤通学路線です。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残ってます。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古レールは横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てです。


表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用されたレール群と横浜線用205系電車。

2010/02/07 11:02:21

岡山県笠岡市六島沖から広島県福山市鞆の浦に「坂本竜馬・いろは...

岡山県笠岡市六島沖から広島県福山市鞆の浦の旅に
「坂本竜馬・いろはまる事件」に思いを馳せて旅に出
ました。江戸時代の末期嘉永年間江戸幕府老中の要職
であった阿部正弘は 福山城を治めた7代目城主でもあり
ました。阿部氏が江戸幕府老中の頃嘉永6年(1853年)に
アメリカ合衆国の海軍所属のマシュー・ペリー提督が率
いる東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県
横須賀市浦賀)に来航した黒船来航事件が起こりペリー
提督によってアメリカ合衆国大統領国書が江戸幕府に
渡され翌年嘉永7年日米和親条約締結に至りました。
この事をきっかけに江戸幕府老中阿部正弘は江戸幕府の
改革はもとより諸藩へ向けて大船建造の解禁と海防の
強化を図る「安政の改革」を推し進め「安政の改革」
の後に安政元年薩摩藩の島津斉(幕末篤姫の養父)は
日本で最初の西洋型帆走船をイギリスで建造させ。
のちに帆走船は坂本竜馬他の紹介オランダの商人から
大洲藩が購入しました。慶応3年(1867)日本で最古
の株式会社亀山社中を改め海援隊隊長となつた。
坂本竜馬は大洲藩から「いろはまる」最初の航海とし
て大阪ま海援隊を率いて鉄砲を運ぶ為に長崎港から出船
し備讃瀬戸岡山県笠岡市六島沖で徳川御三家・紀州藩
「明光丸」と衝突。備後の国鞆港(広島県福山市)まで
いろはまる」を曳航して鞆港で「いろはまる」を修理しよ
うとしたが宇治島沖で沈没した。紀州藩「明光丸」乗組み
員達は鞆浦圓福寺に宿泊し。漂流した海援隊隊員達は鞆港
にやっとの思いで上陸。坂本竜馬は身の危険を感じまた
紀州藩の追っ手から逃れるために廻船問屋升屋清右衛門宅
の屋根裏一室で5泊6日間身を潜めたと伝えられています.
坂本竜馬の海援隊と紀州藩の藩士達は魚屋萬蔵宅で海難事故
の賠償交渉を日本で初めての万国公法(当時の国際法)に
のっとり行なったが港鞆の浦では決着がつかず最終の交渉
は長崎で行なわれたと伝えられています。
[表紙の写真は今回の旅の主人公坂本竜馬が紀州藩の藩士達
と海難事故の賠償交渉をおこなった広島県福山市鞆の浦魚屋
萬蔵宅で写真撮影をしました。現在は「御船宿いろは」とな
っている]

2010/02/05 11:02:12

ユネスコ無形遺産・チャッキラコの祝福 ~前編/三崎港~光を浴...

今年はもっと、神奈川を歩きたい!
神奈川県民なのに最近では横浜以外ほとんどどこも訪れてないことに気付き、どこか行こうと探しました。
すると、1月15日の小正月に三浦で「チャッキラコ」という民俗行事が行われることを知りました。
晴れ着姿の少女達が集まって、舞を披露するというものらしい。
しかもそれは、神奈川県で唯一、ユネスコの無形文化遺産に登録されているという。
これは面白そう!とさっそく僕は三浦へ向かう京浜急行に飛び乗ったのでした。

2010/02/04 09:02:45

嫁の添乗員...

もう何度目だろうか?(仕事も含む…)
やっぱりいつ行っても楽しいハワイだぁ~~。
今回はプロポーズしようと彼女(現嫁)とハワイに出発です。
<軽い感じですが、そうとう重い…>

振休と3連休を使い、木曜のいつものやっぱり仕事終わりで成田へ向かいます。
営業中にいつも聞いてるGROOVE LINEを聞きながら、楽しく東関道を東へ。
ラジオからは「エロ小学生」のネタ。
理屈なしにおもろい。

今回はノースなので1タミなので、大好きな讃兵衛のおそばが食べられない。
でも、もともと渋滞でギリギリでチャックインだったから、どっちにしろ食べられへんわ。


最近はまっているSKIM BOARDを別料金で預けるが、カウンターで分類に手間取る。
おねえちゃん、分類なんてなんでもよかよ~。(怒)
さらに$150って高くない?
もう~
さらにさらに壊れても文句言うなよ的な書類にサインせよ、と!!
お金払って、壊れても責任負わないなんてアホか!!
とは言えず。
いや軽く言った。クレーマーと見られたか…。

まだ出発してない、長くなった。
話を進めよう。


搭乗ゲートへ行くと、上記のすったもんだで遅くなってしまっていたので、係員が既にお待ち申し上げていた。
はいはい、すぐ乗りますよ~。

機内では、いつもの通りすぐに寝るのか(職業病)と思いきや、DSで信長の野望に夢中!!
今回は、信長公にお世話になります。

まあ順調にハワイ到着し、無事イミグレ通過した。
今回は空港からレンタカーを借りてまして、団体さんやパッケージの皆様を横目に、ソッコーで離脱!!
今回は、彼女(現嫁)のみの添乗員として働くつもり。

ではさっそく、荷物をホテルに置きに行く。
11:30出航のホエールウォッチングに間に合うから、取り急ぎ美味しいと聞いた「フォートルガ-マーケット」のアヒポキを購入しに!!
分かりづらいがお店を見つけ、ゲッツ!!
うまし。うまし。
また来たときに買おう。ファンになったわ。


うお(X X)、ゆっくり食しているうちに、出航時間がせまっている。
アクセルを少し強めに踏み込んで、アロハタワーへ。
シューマッハ並のドライビングでON TIME到着。
船はON TIMEじゃ駄目じゃん。

車は、自分で停めてる時間がないので、バレーパーキングで。
少々高い・・。
駄目もとで船の係員に聞いてみると、なんてことない、まだ大丈夫。
といいますか、まだ全然問題ないじゃーんよー。
30分くらい出ない。
急いだ意味が無いよ。


ハワイは、初日が一番辛いのよねぇ。
昨日(ホントは今日)は、仕事してたし、飛行機の中は信長やってたし。(後悔)
せっかく船乗ったのに眠くてしょうがない。

くじらは、いとも簡単に現る。
いっぱいいる。
ちょっとテンションあがる。
嫁もあがる。
でもいっぱいいすぎて眠気が襲来!!ぐぉ~~~

気分を変えて、ウクレレ教室が船内で始まるので参加してみる。
大体、私の方が何でも器用で上手なのだが、なんとウクレレは嫁の方がうまい。
何故だ?
お前の前世はハワイの住民か?
私は指が短いので、弦に届かないわ、動きが遅いわでへたっぴ。
なんか敗北感。

次は、アップがてらにいつものカイルアビーチへ。
翌日以降の下見みたいなもんか。
うむ、今回も良いビーチだ。

ホテルへ戻る途中で、お気に入りのラニカイジュースでTO GOして、飲みながら帰ろう。
嫁が、意外にカメハメハ大王像に行った事が無いというので、ちょっと寄ってみる。
くだらんが、カメハメ波のポーズを強制させ、証拠写真。
ガハハ

ホテルへ戻り、眠いので就寝。
突如、腹が減りチーズインパラダイスへ。太るパターンやな

翌日は、添乗員の本領発揮。
オアフ島の1周ツアーへGO。
まあ、お決まりのパターンだが一応ね。
ドール、ハレイワ、ラニアケアビーチ(亀さん)、カフク(エビちゃん)と回り、今回の旅の目的のプロポーズを。
実は指輪を日本で購入しておいたのだ。
ドキドキ

すごく雰囲気の良いビーチ「ラニカイビーチ」にてプロポーズ。
詳細は恥ずかしいので割愛
ちょっとわざとらしかったかなぁ。
少し演出してみちゃった。
でも泣いて喜んでくれた彼女を見て安心。
これからもよろしくね。

これで今回の目的は果たしたぜ。
ほっとしたところでカイルアをはしごして、ワイキキへもどるよ。
ほっとしたら、お腹が空きましたね。
ココマリーナのロコモコドライブインにてロコモコ食べよう。
いつにも増して美味しい。
一仕事終えたハンバーグが美味しい。

これからの人生ずっと添乗員。
そんな感じか。


よし。
明日から遊ぶぞ。スキムだぜ。
わずか5日間なんで、3日目のこの日はサンセットビーチでスキムです。
波が強くて、我には難しい。
でもトライトライ。
スノボも同じじゃ!!
転んでなんぼ。
トライあるのみ。
でも30超えたおじさんにはダッシュが厳しい。
1時間で足がガクガクブルブル。
しかし、ちょっとうまくなったわ。
ロコボーイに「うまいね」とサムズアップされ、上機嫌。うふ

あっ、朝一でKCC行ったんだ。
フライドズッキーニうまかったわー。
朝から、揚げ物辛かったわー。


ん?
何日目だか、ハナウマも行ったか?
う~ん。
重要な任務を果たしたせいか、記憶がおぼろげ。

さて明日は帰国だね。
帰ろう。



と、すんなり行かないのが我々二人。
ハワイを飛び立ち、あと2~3時間で到着かと言う頃に、機内アナウンスが。
はぁ?
「成田空港が閉鎖されているから、当機は名古屋セントレア空港に向かいます」だと?
意味が分からん。
機内がざわつく。
なんのこっちゃ?
あとでニュースで知ったが、あの「フェデック○機の横転事故」があって半日くらい閉鎖されたんだよね。
(昨年3月の事で、結構前の事ですみません)

いつもいつもなんという、ミスターアクシデント。
名古屋から帰るのはどうすんの?
飛びなおすの?
お金は?
全然分からん。
仕事のうえでも、一度もない事態。
まあ、なんくるないさー。
余計にみそかつ弁当食べられたから、いっか。

成田へ愛車を取りに行き、再度神奈川へ戻る。
疲れた疲れた。
嫁よ、この強運男とならおもしろイベント盛りだくさんだ。
人生おもろい。

2010/02/03 12:02:27

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